曽我の里散策
曽我兄弟遺跡保存会

曽我の里散歩

ここ曽我の里は歴史豊かな地区です。地名からも推測できるように、日本三大敵討のひとつ『曽我物語』はこの地が舞台となっています。当時ここ曽我の里を治めていたのが領主『曽我太郎祐信』。後に曽我兄弟の義父となる事で物語は展開します(鎌倉時代)。また二宮尊徳の母『川久保よし』はここ別所地区から栢山へ嫁いでいます(江戸時代)。文学においては尾崎一雄を始め、太宰治・林芙美子・井伏鱒二 他 多くの文人が尾崎のもとを訪れています。ぜひ!これらの足跡をゆっくりと辿ってみてください。

 

「下曽我駅」をスタートするコースと「曽我梅林」からのコースをご案内しています。

曽我の里散策マップ(A4サイズPDFファイル)は印刷してお持ちになると便利です。

曽我の里マップ

 

曽我谷津地区コース

【徒歩約○分】はJR東海御殿場線下曽我駅出発した順路のおおよその所要時間になります。(SUICAはお使いになれません。)

下曽我駅

 

◎尾崎一雄文学碑

尾崎一雄文学碑

尾崎 一雄

志賀直哉に師事。暢気眼鏡で芥川賞、53年文化勲章受賞。『単線の駅』『虫のいろいろ』など代々宗我神社の神主を務める。井伏鱒二・尾崎士郎・林芙美子・大岡昇平ら文士が尾崎を慕い訪問。 尾崎の死後、原稿・書簡の多くは神奈川近代文学館に寄贈、その後、小田原文学館に移されています

商店街

 

◎尾崎一雄の墓

尾崎一雄の墓

いまだにファンが訪れ、酒豪だった尾崎の墓にはウィスキーなどが供えられています。尾崎は酒豪であり、胃潰瘍で病床に伏しました。

【 文学碑から宮坂を曽我神社に向かい、神社鳥居手前約30mを左折、狭い農道(左手が竹風の塀が続きます)に入り約100メートル、奥まった右手にあります。尾崎家の墓石が3つありますが、右手真ん中になります。徒歩約7分】

尾崎一雄の墓入り口

 

★宗我神社

宗我神社入り口

【大鳥居から宮坂を約200メートル上りきった突き当たり 徒歩約8分】旧曽我六ヶ村の総鎮守。】

毎年9月の祭りには5基の山車と神輿で賑わいます。北条氏の時代から小田原城鬼門(北東)擁護の神社とされてきました。奈良県橿原市に同名の曽我町があり、宗我都比古神社があります。神主の宗我保慶が1028年にこの地に今の宗我神社(宗我都比古)を創建したと伝わっています。祭神は宗我都比古命と宗我都比女命になり竹内宿弥の第3子の夫妻です。境内には小さな社がいくつかあり「御霊社」「稲荷社」は曽我物語に係るものです。

宗我神社境内

 

★法輪寺

法輪寺

★法輪寺薬師堂

法輪寺薬師堂

曽我氏ゆかりの寺です。 臨済宗 建長寺派 了堂素安大和尚により1358年に開山。
古くは曽我氏の菩提寺であったといわれる天台宗の盧尊寺。小沢明神(現在の宗我神社)本地仏であった薬師如来及び日光・月光の菩薩が安置されています。また寺宝として澄禅上人の『一針一拝二十五条』の袈裟があります。左手薬師堂には『薬師三尊』が祀られています。

【宗我神社から東(富士山反対方向)約120m、川沿いの消防小屋脇を左手に上る。徒歩約10分】

法輪寺

 

★大光院

大光院

修験宋相補雲山である京都聖護院の末寺 寺の不動明王は兄弟養父の曽我太郎祐信の守本尊。 兄弟も不動明王に祈願していたと思われる。【法輪寺入り口すぐ隣】

★阿弥陀堂

崇泉寺跡

個人宅で非公開です。曽我氏は追討を恐れ帰農し神保姓に改姓。末裔の方が住んでおり、桓武天皇を含む家系図が当主により書き加えられ続け、現在に至っています。奥庭には阿弥陀堂があり、阿弥陀如来像と祐信公の位牌『宗泉寺殿智獄祐信大居士』他、当時の鎧・刀等が祀られています。

★崇泉寺跡

曽我兄弟の義父 曽我祐信が兄弟追悼のため創建。『祐信山崇泉寺』祐信の菩提寺でもある。1559年曽我氏と北条氏の争いで消失。祐信800年忌に『崇泉寺跡』の石碑が建立。法輪寺前身の盧尊寺もこのあたりにあったため多くの墓群があり、石塔、遺骨が発掘され、地元では『ハカンド』と呼ばれています。法輪寺の末寺。

崇泉寺跡

【阿弥陀堂の前の道を東へ約180m突き当たりを左折】

崇泉寺跡

【 直ぐに右斜め上がり、突き当たりを左折そして右折の突き当たり】

崇泉寺跡

【 キウイ畑の間を通り抜ける。周辺は民家の農地ですので注意。徒歩約15分】

 

★お花畑『千種花苑』

お花畑『千種花苑』

当時、城の付近にはお花畑(薬草)があったということです。兄弟が遊んだとされる『千種花苑』。この場所から昭和3年、二人分の頭骨が入った壺が発見され、東大で鑑定してもらい20代の若者と推定された。頼朝の命で尾河三郎により首級がこの地に届けられたとされている事から、限りなく兄弟のものと思われる。昭和37年首壺は城前寺に納められました

お花畑『千種花苑』

【『阿弥陀堂の前の道東へ。途中右折し、民家の間の小道に右折で入り、約30m左手】

お花畑『千種花苑』

 

以下3か所は同じ場所になります

★曽我城址(曽我太郎祐信屋敷跡)

曽我城址

曽我の郷領主、曽我祐信は『新編相模風土記稿』から推測すると、ここに平屋の城館を構えたと思われます。

曽我城址

【お花畑の前の道を南下、道なりに右に曲がります。約50mで右に上がります。案内板あり。】

★曽我一族供養堂

曽我城址

曽我太郎祐信以来14代甚五郎信正まで繁栄。1559年北条氏康に攻められ、多くが自決。

●物見塚古墳址

複数基の古墳があったと考えられる。 熊野神社、桓武社を祀ってあったものもあったが、明治期に破壊され、残された一基がこの物見塚古墳趾。川原石、鉄鏃、金環が出土しています。

 

◎雄山荘跡地

 

雄山荘跡地

【城前寺の入り口前の道を更に東へ100m進んだ右手。一見、ただの荒地 駅から徒歩約8分】

加来 金升(アサヒ印刷社長)の別荘。 昭和5年完成し、和式・支那式の贅を凝らした建物。2009年(太宰生誕100年)12月26日焼失。 太宰治の熱烈なファンであった太田静子と母が疎開していました。昭和22年、尾崎一雄を見舞いがてら太宰は5日間滞在。静子の日記を参考に代表作『斜陽』の一節が書かれています。当時この山荘から国府津の海の音が聞こえたという事です。斜陽には「支那風のちょっと凝った山荘・・・」「二月には梅が先、この部落全体が梅の花で埋まった・・」という言葉は、太田静子の言葉と娘の太田治子さんは書いています。ホトトギス派の高浜虚子もこの雄山荘で句会を開き「今の世の曽我村は唯梅白し」と詠んでいます。

<焼失直前雄山荘-玄関>

雄山荘玄関

雄山荘全景

雄山荘上棟式

雄山荘棟上げ式 曽我神社神主 加来金升氏(洋装,丸眼鏡)の姿も

★城前寺

城前寺

【大鳥居の手前を右方向に上ります(駐在所右手)。約100mで右折、100m上り左手】

曽我兄弟ゆかりの寺 
境内には、十郎・五郎」、義父 曽我太郎祐信、母 満江御前の供養塔 寺宝として曽我兄弟及び虎御前の木像が安置。長期に渡り曽我物語の関係者を供養してきています。毎年兄弟の命日の5月28日には傘焼法要が実施されています。

曽我兄弟

 

★沓石

沓石

【大鳥居から城前寺に向かい、左折せずに真っすぐに行き、約150m右手斜面中】 五郎が病気治癒後に力試しに石を踏みつけたところ、足跡が出来たという伝承が残っています。

 

曽我梅林コース

【徒歩約○分】は曽我梅林から出発した順路のおおよその所要時間になります。

★二宮尊徳遺髪塚

二宮尊徳遺髪塚

【県道72号線に出、別所梅林バス停を右方向に上り、三叉路(案内板)を県道から外れ真っすぐ6本末の方向に150m右手 徒歩約5分】

尊徳の母「川久保よし』(川久保太兵衛の娘)は塚の近くにある、現川久保組から栢山に嫁いでいます。民次郎(太兵衛の子)が尊徳の遺髪を持ち帰り、その遺言により遺髪塚が建立されました。民次郎は尊徳に長らく仕えています。

 

★見送り稲荷

見送り稲荷

【尊徳遺髪塚から大山道を150mほど登り、右折50m左手に小さな鳥居が見えます 徒歩約8分】

満江御前が再婚で伊豆の河津から曽我に嫁ぐ際、武藤・安池・神尾の従者があり、その際に伊豆の稲荷を勧請します。兄弟が敵討ちに立つ際、この稲荷に立ち寄ったことから、見送り稲荷、また伊豆の従者の3軒から、三軒稲荷(みけんいなり)とも呼ばれています。この社は兄弟の生まれ故郷、伊豆河津に向いて建てられています。

 

★満江御前館跡 小袖曽我発祥の地

別所公民館入り口

前妻の子があったため、この辺りに館を建て住んだといわれています。平成24年まではこの公民館で謡曲『小袖曽我』が5月27日『曽我の傘焼き祭り』の前夜祭に披露されていました。

【県道72号線から別所公民館(案内板)方向に分岐した細道に入り、約150m左手。徒歩約7分)】

 

★薬師堂

薬師堂

焼け薬師立像

古くは中華山応福寺(廃寺)。曽我山(山彦山)の山頂近くの薬師沢に安置されていたとされる薬師如来像が戦国時代の戦火により背面が焼きこげ「ヤケ薬師」と呼ばれるようになり、現在ここに安置。

薬師堂内部

薬師堂内部

薬師堂内部

【別所公民館から南に上り100m、突き当たりを左折。50m上り右折し、左側 徒歩約8分】

 

 

★満江御前の墓

満江御前の墓

兄弟7回忌の日に死去したといわれています。鎌倉五山が確立される頃までは、現在のような墓という認識はなく、小さな石がひっそりと佇んでいるだけです。現在でも伊豆からの従者、武藤家が墓の管理を続けています。

【薬師堂を更に南に下り50m、左折すると案内板が見えます 徒歩約8分】

案内板

 

★六本松跡地

案内板

大山道・鎌倉道・足柄道など旧街道の要衛地でした。松尾芭蕉と弟子、白雄の句碑がある。曽我の十郎と大磯の虎御前が逢引の後に別れを惜しんだ場所といわれている。近くには忍石があります。

【尊徳遺髪塚の通りを更に1k程登ります 徒歩約20分】

 

★忍石

忍石

姥石と姫石の一対があった。姫石は昭和なかば城前寺に移されている。十郎・虎・母満江がこの石に腰掛け、別れを惜しみ、また兄弟を偲んだといわれています。

【六本松を上りきった所から左手の細い道を200m行き、左手道沿い。 徒歩約25分】

 

★曽我祐信宝筺印塔

曽我祐信宝筺印塔

小田原市文化財 曽我の郷領主、曽我祐信の供養塔 曽我氏は帰農し、神保姓へと改名し現在も神保家で子の供養塔は管理されています。

【六本松から150m程下り、本道から右方向にそれ、約150m(水槽)三叉路を右方向に約300m下り右手。 徒歩約  分】

案内板

 

 

●見晴らし台

見晴らし台

【曽我山中腹道を南方向に上り、途中左脇道に入る。登りが少しきつい。約400m左手 徒歩約30分】

富士山・箱根連山・相模湾・足柄平野が一望できます。トイレ 御休み処


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